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オーバーツーリズムから遠く離れて / Aoyama Book Column #6

昨今、日本各地で、観光客が集中して混雑することで様々な弊害をもたらすオーバーツーリズムが問題となっています。

今回紹介するのは、そんなオーバーツーリズムの対極にある本、清水浩史さん『海が見える無人駅』(河出文庫・2023年)です。

日本全国、北海道から宮崎まで、駅舎から海が見渡せる30もの無人駅を著者が一人で旅を重ねて取材した一冊で、巻頭にはカラー写真付きの駅の紹介が載っています。

各駅の眺海度も…!

オーバーツーリズムによって失われるものの一つとして挙げられるのが「旅情」です。

この本は、そんな「旅情」とはどのようなものかを教えてくれます。

誰もいないホームから、ぼんやりと海を眺める。
この時間帯は空と海の色が刻々と変わっていく。空が茜色に変わり、陽が沈んだ後は、ぐっと空の赤みが濃くなる。海は少しずつ鈍色に変わっていく。空気は冷たく澄んでいて、気持ちがいい。景色を大きく吸い込むかのように、深呼吸したくなる。
こうして一日が終わっていく瞬間ー。
どうして、こんなにも淋しさが心地よいのだろう。

p.84「関東・中部 越後寒川駅」

海の見える無人駅において、いちばん愉しい時間帯は夕刻だと思う。
朝の静謐さも捨てがたいが、朝は陽が昇るとあっという間に「昼の風景」へと移行していく。その点、夕刻は少しずつ少しずつ色を変えていく。夕闇が近づいてきて、灯りがともり出す。そんな静けさに包まれると、きっと誰もが優しい気持ちになる。

p.203 「九州 小長井駅」

そして、旅エッセイを読む醍醐味といえば、著者が感じた旅情を、たとえ忙しない日常の中にいたとしても、自分の心の中で追体験できることでしょう。

『海の見える無人駅』を読んでいると、オーバーツーリズムに象徴されるような社会の喧騒から離れて、心の中で海を感じることができ、不思議と満たされた気分になります。

著者は神奈川県・根府川駅の紹介の際、茨木のり子の「海を近くに」という詩を引用し、この詩を「海に行っても行かなくてもいい。海という広さ、遠さを身近に感じられるときこそ、内的な充実とはかられる、ということなのだろう。」と解釈します。

海がとても遠いとき
それはわたしの危険信号です
わたしに力の溢れるとき
海はわたしのまわりに蒼い
おお海よ! いつも近くにいて下さい

「海を近くに」『茨木のり子詩集』

もし、身近に感じられないとき、そんなときは、列車に身を任せて、この本で紹介されている無人駅のどこかに行って海を眺めてみるのはいかがでしょうか。

青山ブックセンター本店・文庫担当 神園智也