見出し画像

「生活を書くこと 、 踏み込むこと」/Aoyama Book Column #2

こんにちは。青山ブックセンター本店 新書担当の山本です。
 
青山ブックセンター本店がおすすめする新刊や選書フェアなどについてのコラムを発信するnoteマガジン「Aoyama Book Column」。
第2回目は、9月に筑摩書房から刊行された石岡丈昇さん『エスノグラフィ入門』を紹介します。



エスノグラフィとは

 本書によると、エスノグラフィとは、人類学や社会学で用いられる調査の方法の一つで、人びとが生活をしている場に実際に赴き、長期間一緒に過ごしながら彼らの生活を記述していく研究のことで、そのような調査を経て書かれた記録のことをエスノグラフィと呼ぶこともあるといいます。

 では実際に「生活を書く」とはどのようなことなのか。それが本書全体を通したテーマとなっています。


生活に「踏み込む」こと

 著者の石岡さんは、フィリピンのボクシングジムを訪ね、そこで住み込みの調査をすることによって、数値のデータのみでは知ることのできないボクサーたちの抱える困難を知ることとなります。そして貧困と身体への負荷が掛け合わされた労働の問題を明らかにしていきました。

 そして、フィールドワークおいては調査する者自身が身体でわかることも大切である、ということを話しています。大学院時代に有機農業を実践する村へ行った際、水田の除草の作業を農家の人と一緒におこなったものの、そこでわずか二日間で体力的に音を上げてしまった、という経験があり、そのときに身をもってその労働の身体への負担を理解することとなったと振り返ります。

 それらの話を読んでいると、「生活を書く」ために調査をしていくというのは、実際の日常に近づき、「踏み込む」ことでもある、と伝わってきます。そこで暮らす人びとにとって迷惑になるかもしれず、調査を「する」側と「される」側として距離が遠くなる可能性もありながら、長い時間を一緒に過ごし、生活に踏み入っていく(田んぼに足を入れる、サンドバッグを打つ)ことで、彼らの暮らしを同じ目線で見つめることに繋がっていく、ということが語られます。


「多様である」ことの先へ

 さらに、個別の生活を書くエスノグラフィに「客観性」はあるのか、という問いに対して第6章で掘り下げていきます。

 そこでは、「多様な解釈がある」という無難な記述で回収せずさらに踏み込んだ現実の把握を目指す姿勢が書かれています。視点の偏りが生じるのは避けられないことと認めながら、バイアスに意識的でありつつ自らの身体を動かし時間を使うことによって、生活者の実感をともなった現実の課題を見て取ることができる、ということが伝わってきました。

 そして、調査地での人びとの生活を見る・聞くことにとどまらず、その観察から「社会を見つめ返す」ということに行き着きます。彼らの視点を借りながら構造的な問題を捉え直し解釈し直すことによって、端的な解決にすぐに結びつかないとしても、長い時間を経てこびりついていた問題を地上に引き上げることが可能なのだ、と強く感じます。

 
 エスノグラフィという方法でフィールド調査を続ける「ある一人の」研究者が、どのような視点で個々の生活を見つめようとしているのか、どのように問題を掬い上げようとしているのか、ということを知ることのできる本書。この本自体が新たなものの捉え方を示し、何かを新しく学ぶことへの入り口となるような一冊だと感じました。



「生活を聞くこと」フェア

新書コーナーにて、『エスノグラフィ入門』の刊行を記念してフェアを展開しています。「生活を聞くこと」をテーマに、他者の声を聞くこと、日常に近づきながら一人ひとりの声を拾っていくことが描かれている書籍をいくつか並べました。
(『エスノグラフィ入門』の「あとがき」の項に読書案内があります。
エスノグラフィの作品や書き方についてはぜひそちらをご参考にされると良いと思います。)
 
 
それでは、フェアで選んだタイトルをご紹介します。


・伊藤亜紗 著『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)
 
 美学者の伊藤亜紗さんが視覚障害者にインタビューを重ね、空間の認識(例えば駅から目的地までの道の捉え方)や、身体の使い方(足の裏から電車の揺れを知る感覚の鋭さ)など、彼らがどのように世界を知覚し手足を動かしているかについてまとめた一冊。
 視覚以外の感覚を用いて「日常」の生活を送る人たちの話を聞くことで、彼ら独自の鮮やかな感覚を知ることになります。自分のものの見方が複数あるうちの一つでしかない、ということを改めて感じます。
 
 
 
・村上靖彦 著『客観性の落とし穴』(ちくまプリマー新書)
 
 一人ひとりの語りのディテールを尊重しながら、個々の経験や生き方のスタイル、その背景にある社会の状況を語り手の視点になって明らかにしようとする姿勢が見られる本書。その一人ひとりの語りには客観的な数値が与える知識とは異なる意味があると論じます。
 
 
 
・磯野真穂 著『他者と生きる』(集英社新書)
 
 人類学者の磯野真穂さんは、挨拶などの慣習化された規範の反復が不安定な人との出会いを安定したものにする、と論じます。また、医療におけるエビデンスと個人のケースの取り扱いについてや、統計学的ではない時間の捉え方で生命の長さを評価する、といった内容も続き、偶然を含んだ「ままならなさ」を見つめる視点が感じられます。
 
 『エスノグラフィ入門』では、フィールドで人びとと同じ時間を過ごすことの重要性や、貧困と時間的予見が奪われることとの関係が論じられている項があり、関連するところもあるように感じました。
 
 
 
・鷲田清一 著『「聴く」ことの力』(ちくま学芸文庫)
 
 「向かい入れられるという、あらかじめの確信がないところでは、ひとは言葉を相手に預けない。」(p.159)
 語る者と聴く者の会話が、誰であっても同じような関わり方で行われるのではなく、「ひとり」と「ひとり」として会話の場があるときに個々の語りが立ち上がってくる、ということを実感します。「聴く」ということをとにかく読み解いていく名著です。
 
 
 
・竹内敏晴 著『ことばが劈かれるとき』(ちくま文庫)
 
 聞く、といっても相互の関係があって会話があって始まる、ということを改めて感じます。それと同時に、言葉を使い他者と関わることにより自分そのものの輪郭がくっきりと現れていく、ということの妙を著者の経験とともに味わうことのできる一冊です。

 
ぜひフェアもあわせてご覧ください。